スターバックスもiPhoneも、商品の機能的価値のみならず、皆が共感するビジョンを具現化して提供することで、ユーザーに長らく支持され続けていることが分かります。また、このビジョンは、競合他社が容易に模倣できない<物語>性を備えています。つまり、ライバルが似たような店舗で上質のコーヒーを提供しても、決してスターバックスにはなれない。酷似したスタイリッシュなスマホを提供しても、決してiPhoneにはなれない、というわけです。
ここまでくると、ちょっと宗教がかってきますが、われわれが、愛好者のことをxx信者と呼ぶのは、まさにこうした<物語>性を含め、スタバやiPhoneがとにかく好き!という状況を的確に表す隠喩表現なのです。
立教大学でしか学べないもの
以上の補助線を踏まえて、立教大学が何を価値として提供すべきかについてお話していきます。とくに、高校生が日々振り回される偏差値という<ものさし>の呪縛を免れ、本当に意味のある価値に基づいて、大学選びを行うための情報を提供することは、大学の使命でもあります。前々回お話しした通り、偏差値という<ものさし>はVUCA時代において、まったく使い物になりません。長い人生を考えると・・・、などというつもりもありません。たった10年間(~28歳)で考えても、偏差値を基準として大学選びを行うことには、本来は、ほぼ意味がありません。
ただし、偏差値という<ものさし>はさまざまな思惑から、「有用である」と喧伝され続けており、大学側も、かつての業界標準だった偏差値という「ゲームのルール」の中で勝ち負けを目指す場合が少なくありません。
少し過激な言い方をすると、大学側が、偏差値を「ゲームのルール」として積極的に受け入れ利用するということは、すなわち、若者の人生を大きく左右する大事な選択の場面で、業界ぐるみでアンフェア・ゲームを押し付けていることを意味するとさえ感じます。
大学の経営陣(およびその《意志》を発信する広報)に求められるもっとも大事な仕事は,「ゲームのルール」を変えることです。
すなわち、受験業界がメシの種として提供する偏差値に一喜一憂させられているなら,高校生や保護者が絡め取られているこの時代遅れのシステムに対して,「あの王様,何も服を着てないよ?」と,本当は誰もが気づいていることを,明確に指摘することです。決して,既存システムに絡め取られる側、ましてや積極的に利用する側に回ってはいけません。
その上で,各大学が,「この世界をどのように変えたいのか」「そのためにどんな人材を育てたいのか」というミッションに基づいて断固とした意志を発信することが大事です。
VUCA時代にありがちなこととして,より具体的なビジョンを決めるのに,合理性や論理性(=機能的価値)をとことん突き詰めていっても,もうこれ以上何もよい知恵が出てこないという事態もまま起こりえます。そんなときに大事になるのは,各大学のもつ建学の精神であり,これまで長年にわたり大事に培われてきた価値観ということになります。つまり,最後の最後は,理屈(=合理的・論理的に説明可能なもの)ではないということであり、言語化できない価値にこそ、本当に人の心を打つ本質があるのです。
ドイツの哲学者ヴィトゲンシュタインが、言葉にできることを言い尽くした果てに立ち現れるものこそが本質的なものである,というのは、まさにこのことを表していると言ってよいでしょう。
立教大学の高らかに宣言する価値観に親和的な高校生は,立教大学が発信するメッセージに強く共感するでしょうし,立教大学に行けば,きっと自分と共感できる友に出会える,と期待に胸をふくらませることでしょう。これは教職員にも言えることですが,それを聞いた人をワクワクさせて,自分もぜひこの共同体の一員に加わりたいと思わせるような,そういう何かが,立教大学固有の価値ということになります。
「立教大学について」
「立教大学の創立者と建学の精神」
そして,立教大学の伝える<物語>に何かしら共鳴する高校生の皆さんをこそ,ぜひ立教大学にお迎えしたいと思います。そうして集った皆さんは,きっとここで生涯の友を得ることができるでしょう。だって《大切なもの》において共感できる人が選ばれてきているから。(ここで「神に選ばれて~」と書くと、本学のチャプレンは大喜びするでしょうが、そこはあえて書きません。言葉にしない方が伝わるものもあるのです。)
立教大学共同体の構成員は,皆,この世界をどう変えていきたいかという大学のミッションに共感し,互いに価値観の共有を喜び合い,そうして形作られるアイデンティティに誇りをもって日々の生活を送ることが,ひとつの理想です。この残酷でどうしようもなくひどい世界と向き合いながら,なお,希望を失うことなく,したたかに力を蓄えていくこと。この世界をよりマシなものに変えていく具体的方策を,決してあきらめずに仲間と一緒に考えていくこと,そして何よりも大事なのは決して希望を失わないことです。立教大学で出会う仲間は,多様な価値観を包摂し「異なる他者」を互いに尊重し、協働してこのミッションを一つひとつ実現していく朋輩であり,厳しい世界の現実を前に心挫けることなく希望をもち続けるための大切な支えでもあります。
皆さん一人ひとりの営みが,100年後の世界を形作っていくという自覚をもって学生生活を送り,卒業後は,社会に出てご活躍いただきたい。話が大きすぎて,ちょっとイメージできないかも知れませんが,皆さんは独りじゃありません。ともに学び合う仲間がいますし,私ども教職員が,導き手として,皆さんの長い人生のビジョンを明確にデザインするお手伝いをします。
こんなことを書くと,お前は新興宗教でも始める気か,とお叱りを受けそうですが,ご心配には及びません。立教大学の掲げる価値観は「自由の学府」です。もちろん,「自由」とは,勝手気ままに振る舞うことを意味する言葉ではありません。「自由」の意味については,人類が数百年にわたり,頭を悩ませてきた論題であり,私のような若輩に明確な答えが出せる筈もありません。ここは立教の先達の言葉に耳を傾けてみましょう。
下記は,立教大学に長年勤められた渡辺憲司先生が,定年退職後に立教新座高校の学校長をおつとめだった頃,卒業生に向けたメッセージです。
渡辺憲司「卒業式を中止した立教新座高校3年生諸君へ」(2011年3月24日)
本文を少し抜粋してみましょう。
「誤解を恐れずに、あえて、象徴的に云おう。大学に行くとは、「海を見る自由」を得るためなのではないか。言葉を変えるならば、「立ち止まる自由」を得るためではないかと思う。現実を直視する自由だと言い換えてもいい。…(中略)…波の音は、さざ波のような調べでないかもしれない。荒れ狂う鉛色の波の音かもしれない。…(中略)…時に、孤独を直視せよ。海原の前に一人立て。自分の夢が何であるか。海に向かって問え。青春とは、孤独を直視することなのだ。直視の自由を得ることなのだ。大学に行くということの豊潤さを、自由の時に変えるのだ。自己が管理する時間を、ダイナミックに手中におさめよ。流れに任せて、時間の空費にうつつを抜かすな。いかなる困難に出会おうとも、自己を直視すること以外に道はない。」
《もう少し理解を深めるための一冊》
